雨宮神父への質問を下記にご記入下さい。
掲示板に公開させていただき、お答えいたします。
公開を希望されない場合はその旨をお書き添えください。
内容を確認後にUPいたします。
公開にふさわしくないと判断される質問は削除いたしますのでご了承ください。
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雨宮神父様
主の平和、8/31,9/1神戸バイブルハウスでの講座は大変勉強になりました。有難うございました。
(例年、カトリック六甲教会でのセミナーに出席し、旧約聖書の意味理解の大切さを感じました)
【質問事項】
ヘブライ語原典旧約聖書BHSを「聖書ヘブライ語文法」(著:小脇光男)で1年半程基礎学習しています。音読することはなんとかできるようになりましたが、動詞変化の難しさや単語の意味解釈(英訳理解)の曖昧さ等で、なかなか独学では理解が深まりません。
初級から中級へ進めるための参考図書をご教示いただければ幸いです。
1.構文理解に役立つ日本語参考書
2.英訳のポータブルな辞書、LEXICON、CONCORDANCE 等
ミルトス日本語逐語訳などの安直な参考資料は使っていません。
63歳からはじめましたので、一生かけてコツコツ学習するつもりです。
お忙しいところ恐縮ですが、気を長くしてお待ちしますので、よろしくお願いいします。
(所属:カトリック夙川教会、兵庫県西宮市在住)
黙示録の読み取り方を雨宮親父から学びたいのですが そのような本はないでしょうか
雨宮神父様、
大変長らくご無沙汰しています。
私は現在も南アフリカのヨハネスブルク在住ですがこの度3~4か月の刷新の時を頂きました。20年前の神学の勉強の時以来すっかり等閑にしてきた聖書をこの機会にもう一度深めてみたいと願いましたら日本でその時間を過ごしてはと勧められました。私には真生会館の講座しか心当たりがないのですが、今年の9月以降から雨宮神父様の或いは神父様お薦めの聖書講座がありましたらお知らせ願えませんか?詰め過ぎたくないので週1のコースが3~4あれば嬉しいのですが。お忙しいところ恐れ入りますがよろしくお願いします。
感謝の内に
㎰ガラシア暁子
雨宮慧神父様
ご無沙汰しております。
いつくしみの特別聖年、そして四旬節、聖週間となりました。この期間、とくに「神のいつくしみ」について思い巡らす機会が与えられ、少しずつ沁みてきているかなと思っています。
フランシスコ教皇様の2016四旬節教皇メッセージの中にも『預言書の伝統の中でいつくしみは、語源のレベルにおいても、母の胎(rahamim)、さらに寛大かつ誠実であわれみ深い愛(hesed)と密接に結びついています。それらは夫婦と親子の関係の中に見られます。』とありました。このrahamimとhesedというヘブライ語(ですよね)についてもっと深く知りたいと思いました。解説してくださいませ。よろしくお願いいたします。
講座でお世話になっております、いつも有難うございます。
旧約で気になっていた箇所があるのですが、ゼカリヤ書のメシア預言とされる中で一つ伺いたく思います。
12章でYHWHは全て敵を倒しイスラエルの回復を約束されます。そして
10節中:彼ら(イスラエル)は、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ・・(新共同訳)
この「私」とは結局誰なのでしょうか?
日本語訳英語訳をみる限り文脈からは主である神と思われます。ネットでヘブライ語文も見てみましたが、やはりこの「私」はYHWHご自身であるように思われます。(私=エルの1人称複数形?אליが充てられているのでは)
この箇所がヨハネ19章37でメシア預言の成就とされているので、刺し貫かれた私はイエスご自身 という事になりますが。これがイエス=神 という事なのでしょうか?
(新共同訳以外で「彼ら自らが刺し貫いた者」と訳しているものもあるようですが)
よろしくお願いいたします。
高橋さま
返事が遅れてすみません。
ゼカリア12章10節は、ヘブライ語聖書(マソラ本文)通りに読み、逐語的に訳すと、「彼らは見つめる わたしを、者を ところの 彼らが突き刺した者を」となります。そこで、新共同訳など多くの邦訳は「彼らは、彼らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ」と訳します。しかし、ヨハネ福音書19章37節が「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」と訳しているように、逐語的訳の前から二番目の単語「わたしを」を「彼を」と読む写本もあります。そうであれば、「彼らは彼を、彼らが刺し貫いた者をみつめる」と訳せます。しかも、10節後半部に「独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」と続けていますから、彼らが「彼」を刺し貫いた」時点では、気が付かなかったけれども、「彼」の死後、「彼」こそ神が派遣した重要人物だと知って、「彼」の死を悲しんだ、と解釈できます。しかし、マソラ本文のままに「わたしを」と読んでも、意味は通じます。その場合、「わたし」は、神から見ると私自身と言えるほどに密接なかかわりにある「人物」と見るか、あるいは「神自身」と見ることもできます。前者であれば、密接なかかわりがあると言っても、神自身ではありませんから、最初の解釈(「彼」と読みかえる解釈)がここにもあてはまります。後者のように「神自身」と見る解釈の場合には、「彼らが刺し貫いた」を文字通りに「刺し貫いて殺した」と解さずに、殺しはしないけれども、「殺したと言えるほどに徹底的に無視した」の意味にとれば、「彼らが徹底的に無視した私を見つめる」と訳すことができます。この場合、10節最初の文章「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」が重要な意味を持つことになります。つまり、徹底的に神を無視していた「彼ら」に対して、神が「憐れみと祈りの霊を注ぐ」ので、「彼ら」は神を徹底的に無視していた自分を恥じ、真に悔やむことになるだろう、と預言していることになります。
お分かりいただけたでしょうか。