第一日目(6月1日)の二番目の訪問地
楠原教会
玉之浦地区の井持浦教会から岐宿地区の楠原教会へ
玉之浦地区の井持浦教会を15時半ごろ出発し、50号線から384号線に入り、さらに164号線、31号線と進んで、27号線との交差点を北へと渡り、岐宿(きしく)地区の楠原教会に到着したのはちょうど一時間後の16時半ごろでした。2004年以前の福江島は、一つの市(福江市)と四つの町(南松浦郡富江町・南松浦郡玉之浦町・南松浦郡三井楽町・南松浦郡岐宿町)に分かれていました(福江島の隣島である久賀(ひさが)島は福江市に属していました)。しかし、2004年8月1日に、これらの市と町、さらに奈留島(南松浦郡奈留町)が合併して、五島市が誕生しました。ですから、五島市は七つの行政地区、つまり福江地区・富江地区・玉之浦地区・三井楽地区・岐宿地区・久賀地区・奈留地区から成り立っています。最初の五つの地区が福江島に属しています。前回、福江島はなめした熊の皮にたとえることができると書きましたが、それを使えば、玉之浦地区は熊の両肩より上の頭部にあたり、岐宿地区は右側の腹になります。前回の Google Earth からの地図を再掲載すると、茶色の部分が家や畑地の集中地帯でした。それは熊の後ろ左足(福江地区南部)と、前の右足(三井楽地区)と、前の左足(富江地区南部)、そして右腹(岐宿地区)だと言えます。古くからの教会は玉之浦地区と岐宿地区と福江地区北部にあります。このことからもわかるように、五島に移住したキリスト者が住み着いた場所は家や畑地が少ない地域だと言えます。
大村藩から五島に移住した潜伏キリシタン
1797年(寛政9年) に五島藩主の五島盛運(もりゆき)は大村領の領民を土地開拓者として移住させるようにと大村藩主大村純鎮(もりやす)に要請し、外海(そとめ)地方から108人が楠原などに移住しました。移住者には開拓地が与えられることが知られると、その後も移住者が続き、その数は3000人に達したとされていますが、そのほとんどは潜伏キリシタンであったと言われています。
楠原やその周辺地区には、外海から人々が移住した確かな証拠が残されています。それは五島には存在しないけれども、外海のあたりでは、かまどや家の周囲を囲む石垣などに使用されてきた結晶片岩が楠原や水之浦地区に残されていることです。この石は比較的柔らかく手軽に加工できるので、外海の人々の間では古くから生活道具の材料として親しまれていました。五島に移住する際に、船底の重石、あるいは錨として使われたのではないかと推測されています。左の写真は水之浦教会の聖ヨハネ五島(日本二十六聖人の一人)の像ですが、その台座の前に置かれた二つの石は結晶片岩であり、左の丸い石の中央に金文字が書かれており、「楠原、牢屋跡の石」と読めたと思います(右の写真)。
上に Google Earth からコピーした地図を載せました。大村湾と角力灘(すもうなだ)に挟まれ、北に突き出た西彼杵(にしそのぎ)半島の南西部が外海と呼ばれる地区であり、そこには出津教会や黒崎教会があります。外海から海を隔てて100キロ近く離れたところに、福江島が存在しています。キリスト教に対する幕府の弾圧が一層厳しくなると、外海は隠れキリシタンにとっては都合のよい場所でした。外海地方は大村城下から遠く離れ、お上の目が届きにくい場所であり、しかも佐賀藩領の飛地が混在した複雑な場所でもあったので、信仰生活を維持しやすかったからです。しかし、平地が少なく土地はやせているので、暮らしを立てにくいところでもありました。外海の人々にとって、海の向こうの五島は自由な信仰と希望のある生活を保障する場所と見えたのかもしれません。移住者が3000人に達したのも理解できます。
楠原教会
前回の五島旅行では、楠原教会を訪ねることができませんでしたが、写真集で楠原教会のファサード(前面)写真を見て、ぜひ行ってみたいと思いました。掲載した写真は今回撮ったものです。ファサードは三層に分かれていますが、初層よりも中層のほうが縦幅が短くなり、最上層はさらに短くなっているので、均衡のとれた、安定感を感じさせます。初層には尖頭アーチの出入り口が三か所にあり、中央の出入り口は左右よりも広く、また高くなっています。尖頭アーチとはアーチの頂点をとがらせたアーチのことであり、完全なアーチよりも高い強度を持ちます。中層の中央部には三連の尖頭アーチ窓があり、その左右にはブラインド丸窓が配置されています。 この丸窓の上の屋根は「へ」の字形の独特の形状をしていますが、教会堂の横に回って見上げると、ブラインド丸窓の裏側にはほとんど何もなく、壁にすぎないのが分かります。おそらく、控壁――煉瓦などを積み上げて造った壁は、時間がたつにつれて、外に広がる傾向があるので、壁面に直角に設けた突出した補助壁のこと――としての機能を持っているのでしょうが、「へ」の字形の屋根をつけたのは装飾のためと思われます。 最上層の中央には、二連のよろい戸付き尖頭アーチ窓が配され、その上には切妻屋根がおかれています。
右上の写真はファサードの中心部を拡大したものです。特に初層の中央出入口が尖頭アーチであることがはっきりします。また、初層と中層の間や中層と上層の間には、煉瓦積みを変えることによってつくられた装飾帯が置かれています。この装飾帯と直角に交わる控柱――控壁と同じ機能を持った、突出された柱――によって垂直性が強調されています。外壁の煉瓦を積む方法にはいろいろな種類があります。基本は次の原則にあります。煉瓦と煉瓦をくっつける接着面(つなぎ目)を目地といいますが、縦の目地がまっすぐ通ってはいけないということです。縦方向に重なってしまうと、壊れやすくなるからです。楠原教会の外壁を注意深く見ると、煉瓦の小口面(短い面)の層と長手面(長い面)の層が交互に現れる積み方になっています。これを「イギリス積」と呼び、経済的で、最も一般的な積み方です(上の写真を参照)。
教会内部は三廊式――身廊(主廊)とその左右の側廊の三つの廊からなる聖堂――であり、身廊は15尺で側廊は7.6尺になります。身廊の幅を側廊の幅で割った値が2になるのが、教会堂建物の完成期の数値だとされますが、楠原教会は15÷7.6=1.97・・ですから、完成期の数値に極めて近いと言えます。
身廊と側廊とを分ける二列の列柱は木製の丸柱で八角形の台座を持っており、列柱上部には植物模様を施した第一柱頭があり、その上には二本の付柱を持つ第二柱が乗っており、その先端には第二柱頭がおかれています。左の写真の右端と左端の柱が身廊と側廊とを分ける列柱の始まりとなり、それより奥の柱は内陣を支える柱だと思います。列柱の最初となる柱に注目してください。柱の途中に植物模様をあしらった第一柱頭があり、さらに柱は上に伸びて第二柱頭に達し、そこから手前に装飾帯が伸びているのがわかります。
しかし、内陣の天井を見ると、きれいなリブ・ヴォールト天井である身廊部や側廊部とは違って、平らな天井になっています。これは、1968年(昭和43年)、鉄筋コンクリートによる大改修によって、会堂の一部から内陣(祭壇部)にかけて平人井(平らな天井)にされたからです。
左上の楠原教会の全体写真に再び目を向けてください。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、教会堂の左側の奥まったところに2メートルぐらい突き出た部分があります。これは出入り口です。普通の教会にはないのに、五島の教会には必ずあると言えます。ある神父さまに尋ねると、ミサの途中で子供たちが入堂するための出入り口だ、と教えてくださいました。なるほどと思いました。おそらく、最初から子供たちが入堂していると、退屈してしまいます。そこで、感謝の祭儀になったら入堂させようと考えたのだと思います。しかも、ミサの雰囲気を壊さないように、信徒席の最前部の横に出入り口を作ったのではないでしょうか。これが正しいとすると、大勢の子供たちが教会に来ていたことになります。
楠原教会と迫害
日本でのキリスト教伝道の歴史を簡単に振り返りたいと思います。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌年、平戸で布教を開始したのは1550年(天文19年)のことでした。さまざまな困難があったでしょうが、伝道は順調にすすみ、1563年(永禄6年)には、最初のキリシタン大名として大村純忠が洗礼を受けるほどでした。五島にキリスト教が最初に伝えられたのも1566年(永禄9年)であり、イエズス会のアルメイダによってでした。翌年、後に五島藩主となった宇久純尭も洗礼を受けています。アルメイダには医術の心得があり、彼が純尭の病もいやしたことが、洗礼のきっかけとなったのだと思われます。キリスト教は着実に伸びてゆき、1580年(天正8年)には最初のキリシタン大名大村純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進し、1582年(天正10年)には天正少年使節がローマに派遣され、1584年(天正12年)には純忠の甥で、キリスト者であり、肥前日野江藩初代藩主であった有馬晴信が浦上村をイエズス会に寄進しています。
しかし、キリスト教の影響が拡大することへの警戒から、1587年(天正15年)、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布してキリスト教宣教を禁止しましたが、秀吉は南蛮貿易に強く惹かれていたので、1588年(天正16年)長崎・茂木・浦上を直轄地にし、貿易を続けようとしました。その結果、布教活動への介入は中途半端になり、迫害には至りませんでした。しかし、1596年(慶長元年)のサン・フェリペ 号事件がきっかけとなって、秀吉は京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒を捕まえ、長崎で磔にするようにと命令を出しました。こうして、1597年(慶長2年)、長崎の西坂の丘で宣教師と信徒26人が処刑されました。これが日本でキリスト教信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われた最初でした。江戸幕府になると、京都と長崎における宣教師の居住が一時的に許されましたが、1612年(慶長17年)、長崎を含む天領に棄教令が布告され、京都の教会は破壊され、さらに1614年(慶長19年)、棄教令は全国に広げられました。家康が強硬手段を用いたのは、当時、日本国内の聖職者は150名、キリスト教信徒37万(このうち公家が二家、キリシタン大名55名)に上っていたからです。この後、幕府はキリスト教を封じ込めようとして、1633年(寛永10年)から始まる「鎖国令」や1635年(寛永12年)から始まる「寺請制度」などによって、キリスト教を弾圧しました。これに対して、信徒が信仰を守り抜こうとすれば殉教となり、1622年(元和8年)の「元和の大殉教」、1637~38年(寛永14~15年)の「島原・天草の乱」、1657年(明暦3年)の「大村崩れ」が起こりました。
しかし、キリスト教に対する幕府の手は緩められることはなく、1633年の第一次鎖国令の後、1634年に第二次、1635年に第三次、1636年には第四次の鎖国令によって鎖国体制を強化し、1639年(寛永16年)の第五次鎖国令によってポルトガル船の入港を禁止し、中国(明朝と清朝)とオランダとだけと通商関係をもつ鎖国体制を完成させ、宗門改めをもいっそう制度化してゆき、1671年(寛文11年)には「宗門人別改め帳」の作成を布達し、1687年(寛文11年)には「キリシタン類族令」を布達しました。
幕府によるキリスト教包囲網がこのように完成してくると、キリスト者の取る道は「殉教」か、あるいは「隠れキリシタン」として生きるかのどうらかです。大村藩の農民が五島へ集団的に移住したのは1772年(安永元年)が最初で、三井楽地区の淵の元に移住しました。この移住は1773年にも、1776年にも行われました。楠原への移住はすでに書いたように1797年(寛政9年)に行われましたが、この移住は五島藩主の要請に基づく公式移住でした。いずれにしても、18世紀後半に大村から五島への移住が繰り返されたのは、「隠れキリシタン」として生きることにも危険が伴ったからです。1790年(寛政2年)の「浦上一番崩れ」も、1839年(天保10年)の「浦上二番崩れ」も、1856年(安政3年)の「浦上三番崩れ」も、密告によって引き起こされたことが示すように、住み慣れた場所に生活し続けることには危険が伴うからでしょう。こうして、五島への移住を選んでも、表立った信仰生活は不可能だし、仏教徒を装い静かに暮らさねばなりませんでした。
しかし、開国を迫る諸外国の要求がいっそう強くなり、1858年(安政5年)、幕府は欧米五か国と「修好通商条約」を締結せざるを得なくなり、さらに外国人居留地での教会堂の建築を許可することになりました。1862年(文久2年)には横浜天主堂が、さらに1864年(元治2年)には大浦天主堂が献堂されました。献堂直後に、プチジャン神父による信徒発見が起こりました。大浦天主堂のホームページによると、その模様が次のように描かれています。
日本は当時まだ禁教令下にありましましたが、フランス人のために1864年(元冶元年)大浦天主堂が完成しました。翌年1865年2月17日、ジラール教区長により天主堂は「日本26聖人殉教者天主堂」と命名、献堂されました。それから一ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂に、珍しい西洋風の建物を一目見ようと、見物人が大勢来ていましたが、その客にまぎれて、浦上の隠れキリシタンたちがやって来ました。そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、私たちもあなたと同じ信仰をもっています、とささやいて信仰告白した後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。そこで、プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いたのです。こうして、プチジャン神父によってキリスト信者が発見されました。その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また、遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきたと言われています。
豊臣秀吉とそれに続く徳川幕府のキリスト教禁教令、そしてついには1639年の鎖国令により、宣教師達は追放されました。幕府のキリシタンに対する迫害、拷問は続き、残酷さは増す中で来日できなくなり、実に七世代、250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら、しかし内にはキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきた隠れキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになったのです。
この隠れキリシタンとプチジャン神父との出会いの要となったのが、小さなマリア像です。世界宗教史上、類まれなこの出来事が、その小さなマリア像の前で起こったのです。まさに奇跡とも言えるこの感動的な出会いがマリア様を通して行われたのでした。このため、この時の聖母子像は、『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになったのです。また、プチジャン神父から見た「信徒発見」は、キリスト信者から見ると、「神父」と「マリア像」を発見したと言えましょう。
宣教師の指導も支援もないままに、信仰を隠して生活せざるをえなかった信徒たちが目の前に神父を目にしたのですから、その感動は言葉に表せないほどでしょう。ホームページに「その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また、遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきた」とありますが、ごくごく自然な反応です。しかし、幕府にしてみれば、神父の在留と教会堂建設を許可したのは居留地にかぎってのことで、キリスト教を公認したのではありません。1865年の「信徒発見」から二年目の1867年に衝突が起こってしまいました。それが「浦上四番崩れ」です。事件の発端は、浦上の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことでした。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明しましたが、長崎奉行はいったんは彼らを村に返しました。その後、幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛されました。翌日、事件を知った諸外国の公使たちは長崎奉行に対し、人道に外れた行いだと即座に抗議を行いました。
同じ年の11月に大政奉還が行われ、江戸幕府が瓦解すると、1868年4月に「五榜(ごぼう)の掲示(五榜の立札)」が発表されました。これは新政府の方針を明らかにしたものですが、内容的には幕府の方針を継承するものでした。第三札には「キリシタン邪宗門の禁止」が定められていました。諸外国の抗議にもかかわらず、7月には信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することが決定されました。以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛され、3300人余りが流罪に処されました。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続け、その陰惨さと残虐さは幕府時代以上であったと言われています。
五島に目を移すと、1868年(明治元年)には、後で詳しく述べるように、久賀島では200人余りが「牢屋の搾」と呼ばれる迫害を受け、42名が殉教しています。これが「五島崩れ」と呼ばれる迫害の最初になりました。翌年(明治2年)になると、福江島の岐宿(楠原など)にも迫害が広がり、1870年(明治3年)には、上五島の中通島の鯛ノ浦で「六人切り事件」が起こっています。
各国公使は事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行っていました。一方、日本国内では森有礼のように禁教政策の継続の難しさを訴える人もいましたが、政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」と主張し、禁教令撤廃に強硬に反対する人たちもいました。しかし、諸外国との友好関係を優先させ、1873年(明治6年)、キリシタン禁制の高札は撤去され、浦上四番崩れによって流罪となった人たちはようやく釈放されて、浦上に帰り、1879年(明治12年)には浦上天主堂を建てることができました。この間、流罪とされた人の数は3394名であり、そのうち662名が命を落としています。
我々は16時35分に楠原教会を後にして、水ノ浦教会に向かいましたが、その途中、「楠原の牢屋跡」を見ました(右の写真を参照)。すでに書いたように、「五島崩れ」は1868年(明治元年)の年末に久賀島からはじまりましたが、クリスマスの日には水ノ浦に達し、まもなく楠原のキリシタンも取り調べをうけて、仮牢となった狩浦喜代助宅に投獄された後、水ノ浦の牢に移されました。牢屋となった屋敷の材木は、1954年(昭和29年)、水ノ浦修道院楠原分院の1階に使用され、1995年(平成7年)に解体され、翌年、牢屋跡横に、残された材木で牢屋が縮小復元されました。
明治2年にこの牢屋に閉じ込められ、明治6年に解放された人たちが、約30年の間、資金をためて建設した教会が楠原教会です。