第一日目(6月1日)の最初の訪問地
井持浦(いもちうら)教会
今回の「五島と平戸への旅」は6月1日から4日まで、三泊四日の旅でした。
羽田から福江島へ
6月1日の集合時間は羽田空港に8時45分でしたが、遅刻常習犯の私が羽田に着いたのはなんと8時20分。みんなに冷やかされました。9時45分発の福岡行きに乗り、到着は11時40分。福江島に飛ぶオリエンタル・エア・ブリッジ機に乗り換えでしたが、出発ターミナルまでかなり歩きました。ちょっと複雑で、ひとりだったら乗り遅れたのではと思うほどでした。前もって「乗り継ぎ時間が短いので、羽田空港で昼食を購入するように」と聞いていましたが、福岡でうどんを食べようと思い、羽田では買いませんでした。しかし、福岡では食事の余裕はなく、大好きな「梅が枝餅」を買いました。飛行機の離発着が多く、10分ほど遅れて、福岡を飛び立ち、45分のフライトで五島福江空港に到着しました。
福江空港から井持浦教会
右に福江島と久賀島の地図を載せておきました(地図や写真の上にカーソルを置き、左クリックをすると拡大する。しかし、拡大しない写真もある。拡大した地図や写真をを閉じるには、右下の「戻る」をクリック)。
五島列島は長崎の西100キロに浮かぶ大小130の島によって構成されていますが、ちょうど中ほどの滝ケ原瀬戸が境界線となって、それより北が上五島と呼ばれ、下が下五島と呼ばれます。下五島に属する大きな島は福江島、久賀島、奈留島の三つです。福江島はなめした熊の皮のような形をしていて、その左後足の付け根に「福江空港」があります。この空港は鬼岳(標高315m)の中腹にあるので、福江の中心部へ行くには坂を下ってゆきます。街の中心部に入り、27号線に入り、道なりに15キロほど西に進むと、31号線と交差します。交差点ですから、信号があります。ガイドさんが「この信号が最後で、これより西には信号はありません」と言ってました。自動車が少ないということなのでしょうか。この交差点を左折して31号線を2キロ下り、164号線に入ります。集落はほとんど姿を消し、川が並走する道を南西に向かって10キロ余り下ると、福江島の西端部を南北に走る384号線にぶつかります。そこを左折して玉之浦湾を右手に見ながら南に下り、湾が南に最も深く入り込んだあたりで、東に折れる384号を離れて、50号線に入ります。間もなく道路わきに「旧立谷教会跡地」への入り口を示す記念碑が立っています。ガイドさんの説明によると、立谷教会が建てられたのは、キリシタン禁制の高札が撤去された1873年から5年後(1878年)のことで、五島での最初の教会堂なのだそうです。しかし、1987年に自然崩壊してしまい、現在は無原罪の聖マリア像と祈りのためのベンチが配置されているそうです(左の写真は跡地に造られた無原罪の聖マリア像とベンチで、インターネットからコピーしました)。行ってみたいと思いましたが、今回は無理。次回のお楽しみです。50号線をさらに西に入ると、地図上の「大瀬崎灯台」という表示の「大」の字のあたりに「井持浦教会」があります。 空港からは一時間程度でした。
五島で最初の教会は玉之浦地区にできた
右の地図は Google Earth で見た福江島の様子です。緑色の部分は樹木が生い茂っている地帯であり、茶色の部分は居住地域や畑地となっている部分です。井持浦教会の建っている玉之浦一帯は緑色ですから、畑地や建物がほとんどないこととになります。もちろん、地図を拡大すると小さな集落が現れますが、200を超える戸数ではないようです。すでに書いたように、島の中央部で東西に延びる27号線と南北に延びる31号線とが重なる交差点の信号機よりも西側には、一つも信号機がない、とガイドさんが教えてくれましたが、確かに玉之浦湾周辺は家が少なく、信号機はなくても良いと思います。しかし、そうなると、小集落が散在する玉之浦地区になぜ最初の教会として立谷教会が建てられ、今も残る井持浦教会や玉之浦教会が建てられているのか、不思議に思えます。そこで、井持浦教会の歴史を調べることにしました。
玉之浦地区の信徒たちは、五島列島の他の教会と同じように、江戸時代末期に大村藩から五島に移り住んだ潜伏キリシタンが最初だったようです。当時、玉之浦湾の漁獲物を塩漬けにする塩の生産が五島藩にとって重要な収入源でしたが、彼らはこの塩づくりに従事していました。明治初期の五島列島は迫害に苦しみましたが、玉之浦地区は迫害を逃れた唯一の地区でした。彼らが従事した塩づくりが藩にとって重要な収入源だったからかもしれません。あるいは、この地区は福江島の中心部から遠く離れていたので、お上の目が届きにくかったのかもしれません。いずれにしても、1878年(明治11年)には「立谷教会」がこの地に建てられ、さらに17年後の1895年(明治28年)には、リブ・ヴォールト天井をもつ、レンガ造りの立派な教会が「井持浦教会」として建てられました(ちなみに、立谷教会は木造教会でしたが、インターネットにのっていた古い写真を見ると、リブ・ヴォールト天井でした。リブ・ヴォールト天井については、あらためて説明したいと思います)。井持浦教会の建設を指導したのは、1895年(明治28年)に、五島全体の宣教と司牧を委ねられたフランス人宣教師ペルー神父でした。当初、ミサは司祭が巡回してくる時だけで、月に1~2度しか行われなかったようですが、井持浦の集落だけでなく、点在する多数の集落からろ舟を漕いで参加していたと言われています。最初の教会の建築から29年が経過した1924年(大正13年)年、教会の両外側に吹き放ちになっていたアーケードを堂内に取り込む改修が行なわれました。また、建築から92年後、1987年(昭和62年)に台風によって倒壊してしまいました。しかし、翌年新しくコンクリート造りに改築され、外面は大正時代の改修時の姿を表していますが、内部は現代風の教会堂に変わっているのではないかと思います。左下の写真は現在の井持浦教会です。この写真の正面の右端と左端の白く塗られた部分が、1924年の改修で拡張された部分なのだろうと思います。
日本最初のルルドも玉之浦の井持浦教会に
ペルー神父は、聖母が出現したフランスのルルドの洞窟をまねた洞窟を井持浦教会に造ることを信徒に呼びかけ、福江島の西隣の嵯峨島の岩石をはじめ、五島各地からふさわしい岩石を集め、1899年(明治32年)に完成させました。ルルドで聖母が少女ベルナデッタに最初に現れたのは1858年ですから、井持浦教会のルルドは日本最初のルルドになりました。右下の写真が井持浦教会のルルドです。
今回も井持浦教会でミサをささげてから、外に出て、ルルドに向かいました。それから、バスが停まっている駐車場におりてゆきました。その道は海辺にまでつながっているのに気づき、海辺まで降りてゆき、写真を撮りました。それが下の写真です。対岸の家は別荘だそうです。インターネット情報によると、井持浦教会には宿泊設備が整っているのだそうです。インターネットですから、古い情報で、今は閉じられている可能性もありますが、閉じられていなければ、一泊して、朝の散歩を楽しめたらよいな、と思いました。100年前にミサにあずかる人たちがろ舟をつないだのはこのあたりではないでしょうか。これで第一話は終わりです。