雨宮神父への質問を下記にご記入下さい。
掲示板に公開させていただき、お答えいたします。
公開を希望されない場合はその旨をお書き添えください。
内容を確認後にUPいたします。
公開にふさわしくないと判断される質問は削除いたしますのでご了承ください。
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雨宮慧神父様
ご無沙汰しております。
いつくしみの特別聖年、そして四旬節、聖週間となりました。この期間、とくに「神のいつくしみ」について思い巡らす機会が与えられ、少しずつ沁みてきているかなと思っています。
フランシスコ教皇様の2016四旬節教皇メッセージの中にも『預言書の伝統の中でいつくしみは、語源のレベルにおいても、母の胎(rahamim)、さらに寛大かつ誠実であわれみ深い愛(hesed)と密接に結びついています。それらは夫婦と親子の関係の中に見られます。』とありました。このrahamimとhesedというヘブライ語(ですよね)についてもっと深く知りたいと思いました。解説してくださいませ。よろしくお願いいたします。
講座でお世話になっております、いつも有難うございます。
旧約で気になっていた箇所があるのですが、ゼカリヤ書のメシア預言とされる中で一つ伺いたく思います。
12章でYHWHは全て敵を倒しイスラエルの回復を約束されます。そして
10節中:彼ら(イスラエル)は、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ・・(新共同訳)
この「私」とは結局誰なのでしょうか?
日本語訳英語訳をみる限り文脈からは主である神と思われます。ネットでヘブライ語文も見てみましたが、やはりこの「私」はYHWHご自身であるように思われます。(私=エルの1人称複数形?אליが充てられているのでは)
この箇所がヨハネ19章37でメシア預言の成就とされているので、刺し貫かれた私はイエスご自身 という事になりますが。これがイエス=神 という事なのでしょうか?
(新共同訳以外で「彼ら自らが刺し貫いた者」と訳しているものもあるようですが)
よろしくお願いいたします。
高橋さま
返事が遅れてすみません。
ゼカリア12章10節は、ヘブライ語聖書(マソラ本文)通りに読み、逐語的に訳すと、「彼らは見つめる わたしを、者を ところの 彼らが突き刺した者を」となります。そこで、新共同訳など多くの邦訳は「彼らは、彼らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ」と訳します。しかし、ヨハネ福音書19章37節が「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」と訳しているように、逐語的訳の前から二番目の単語「わたしを」を「彼を」と読む写本もあります。そうであれば、「彼らは彼を、彼らが刺し貫いた者をみつめる」と訳せます。しかも、10節後半部に「独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」と続けていますから、彼らが「彼」を刺し貫いた」時点では、気が付かなかったけれども、「彼」の死後、「彼」こそ神が派遣した重要人物だと知って、「彼」の死を悲しんだ、と解釈できます。しかし、マソラ本文のままに「わたしを」と読んでも、意味は通じます。その場合、「わたし」は、神から見ると私自身と言えるほどに密接なかかわりにある「人物」と見るか、あるいは「神自身」と見ることもできます。前者であれば、密接なかかわりがあると言っても、神自身ではありませんから、最初の解釈(「彼」と読みかえる解釈)がここにもあてはまります。後者のように「神自身」と見る解釈の場合には、「彼らが刺し貫いた」を文字通りに「刺し貫いて殺した」と解さずに、殺しはしないけれども、「殺したと言えるほどに徹底的に無視した」の意味にとれば、「彼らが徹底的に無視した私を見つめる」と訳すことができます。この場合、10節最初の文章「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」が重要な意味を持つことになります。つまり、徹底的に神を無視していた「彼ら」に対して、神が「憐れみと祈りの霊を注ぐ」ので、「彼ら」は神を徹底的に無視していた自分を恥じ、真に悔やむことになるだろう、と預言していることになります。
お分かりいただけたでしょうか。
雨宮神父 様
お元気ですか?
もっと早く知っていれば良かった。たまたまこのホームページを見つけました。
素晴らしい内容です。私にとって宝の山です。
たびたび利用させていただきます。
ありがとうございます。
北海道旭川市 水野清哉
水野清哉先生
先生の投稿を懐かしく読ませていただきました。
ありがとうございます。
ご存じだと思いますが、真生会館は再建されますが、新しい真生会館からは聖書センターはなくなります。
そこで、先生が素晴らしい内容とおっしゃってくださった資料をどうしたらよいか、その活用法を考えています。
紙媒体を使う方法は資金的に無理ですから、インターネットを活用するほかに道がありません。
その場合、どのような活用法があるのか、考えています。
よいアイデアがあったらぜひ教えてください。
よろしくお願いします。
雨宮神父様
はじめまして、高橋と申します。
聖書に「淫らな目で人の妻を見てはならない」という旨がありますが、これは、想いを寄せる(恋い慕う)ことすらいけない、ということなのでしょうか?
肉体関係を望まないのであれば、想いを寄せることは
許されるのでしょうか?
ご教示お願いいたします。
高橋さま、投稿をありがとうございます。
「肉体関係を望まないのであれば、想いを寄せることは許されるか」という質問ですが、ごくごく一般的に言えば、許されるのではないかと思います。しかし、問題は「淫らな目」と「淫らでない目」の境目はきわめてあいまいだということです。神の助けがないかぎり、この境目を守ることは難しいのではないでしょうか。
はじめまして。聖書 掲示板で検索して見つけました。
私は聖書をもらったので読み、気になる事があり質問したのですが、教えてくれませんでした。
どうしても解決したいです。よろしくお願いします。
使徒10:9-28なのですが、ペテロが空腹の時の出来事で、神が清めたものを汚れていると呼んではならないと幻がペテロに言っていますが、その後、28節で、神は何人を汚れていると呼ぶべきではないことをお示しになりましたとペテロは言っていますが、これは人の事ではなくて食べ物を神が清めたことをペテロは理解できていないんじゃないでしょうか?なぜそう思うかというと、12、13節で生き物をほふって食べなさと書いてありますが、14節でペテロはいまだかつて汚れたものは食べたことが無いと言っているのでこの幻の意味が全ての人は清いという意味なのであれば律法で禁じられた食べ物は禁じられたままということになってしまいます。でもそうすると、マルコ7:19でイエスが全ての食べ物を清めたのであるというのはどうなるんのでしょうか。ここも全ての人が清いと言う意味なんでしょうか。18節から23節までを通して読むと、口に入る物では汚れない、口から害になる推論が出るから全ての食べ物は清いのだと言っているので、このこと事態が、ペテロから害になる推論が出ている証明になってしまっているのですがどうなってるんでしょうか。
この口から入る物と出るものについての例えを言うに至った経緯がマルコ7の5節から読むと、神の掟を押しのけて人間の命令を教理として教えることについて言い方を変えて口から害になる推論が出るのだと言っているのでここは絶対にペテロは食べ物をイエスが清めたことを理解していなければいけないと思うんです。ほふって食べなさいという意味が全ての人が清いというなら、巧妙にも神の掟を押しのけて人間の教理を教えるをペテロ自ら証明してしまっているとしか読めないのです。どうなってるんでしょうか。
返事が遅れて申し訳ありません。
使徒言行録の10章ですが、ペトロがヤッファで見た幻における「動物」は異邦人を表す隠喩だと思います。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた人ですから、交わりを避けていました。ペトロは幻に見た「動物」を文字通りに動物と考え、しかも汚れた動物ですから、「屠って食べなさい」と言われたときに、「とんでもないことだ」と考えました。しかし、ここでの「動物」は異邦人のことですから、「屠って食べなさい」も文字通りの意味ではなく、「神に清められた人として交わりを持ちなさい」の意味です。使徒言行録の10章44節以下には、コルネリウスなど異邦人の上にも聖霊が下ったので、「割礼を受けている信者=ユダヤ人キリスト者」が驚いたとありますし、11章1節以下のエルサレム教会へのペトロの報告内容から見ても、ペトロが見た幻における「動物」は食べ物としての動物ではなく、異邦人を表す隠喩だとみるべきではないでしょうか。従って、マルコ7章と使徒言行録10章は無関係だと言えます。
私は以上のように考えます。
「イエスが歩いた道をゆく」旅のパンフレットの送付を希望します、このメールでお願いして宜しいのでしょうか? 資料請求の手続きを教えてください。
i雨宮先生ご無沙汰しております。いつも築地の講座に参加しようと思っていたのですが、体調や都合が悪く一度しか参加できず残念でした。ぜひ新年になったら参加させてもらいたいと思っています。クリスマスが間近になってきました。先生にとっても最善のクリスマスになりれますように。小川
お忙しい中、丁寧なお返事をありがとうございます。
私はある宗派から、こう教わりました。「悪魔:神を中傷するもの」「サタン:神に逆らうもの」
ある超人的な存在とされる、「み使い」の中の、特定的なものへの総称だと。
アダムとイブを、神から引き離したものとは、この「悪魔サタン」だと言います。それにしては、アダムもイブも、簡単に騙されているのは、余りにも、稚拙だと思っております。現代でも、騙されるというのは、勿論騙す側のずる賢さや巧妙さがあるとしても、騙される側にも、私利私欲が絡んで居たり、軽率さが見受けられたりします。人間の持つ「欲」を、上手く刺戟されていて、それを自覚なく利用されてしまっている、と思います。一方で、認知症などで判断力を失っている人が狙われているとも聞きます。
アダムとイブの置かれていた状況は、どう理解したいいのでしょうか。
そして、「み使い」の中には、神の側にいるものと、「訴えるもの:疑り深いもの」という二種類の存在がある、ということなのでしょうか。
土曜聖書講座では貴重なお話をありがとうございます。
この掲示板では聖書を読んで疑問に思うことをお聞きしてもいいのでしょうか。
私はプロテスタント系の教会に数十年通っています。信者ではありませんが。最近改めて聖書をマルコから読み始めました。読んでいると今までとらえていた聖書の内容とは違う内容に思えてなりません。聖書を読んでいて疑問に思う事を掲示板でお聞きしてもいいのでしょうか。
福原さま
新共同訳の特徴は、プロテスタントや聖公会やカトリックなど、多くの教派が共同で訳したことにあります。新共同訳が成功したかどうかは別として、このような仕事が一応の完成を見たということは、教派を超えて、聖書を一緒に読むことが出来るという確かなしるしだと思います。このゆなしるしを大事にしたいと私は考えています。
なにかご質問があれば、遠慮なく投稿してください。
先生の「なぜ聖書は奇跡物語を語るのか」というご著書を拝読致しました。
その中に、「・・旧約聖書の中でも古い資料にはサタンが現れず、・・紀元前4,5世紀になって初めて、サタンが登場します」とあります。
私は、創世記に登場する蛇は、悪魔サタンの化身だとばかり思っておりました。人間が初めて自分の意志と選択権を行使して、神に背く道を選んだ背景には、ただ人間の未熟さや思慮のなさだけでなく、悪意を持った別の者の誘導があったからではないかと疑っておりました。
一方、アブラハムにはみ使いが現れ、ロトはみ使いに導かれて命拾いしています。
この、み使い、という存在と、サタンという存在とは、何の関係もないのでしょうか。
宇野さま
いただいたご質問に答えさせていただきます。
まず、サムエル記下24章と歴代誌上21章を比べてみてください。新共同訳がどちらの表題も「ダビデの人口調査」としていることから分かるように、同じ出来事を書いた並行記事です。しかし、サムエル記下24章1節では「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。」ですが、歴代誌上21章では「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」とありますから、ダビデを人口調査へと誘った誘惑者が「主」から「サタン」に変えられています。サムエル記は紀元前5世紀頃に最終編集を終えていますが、歴代誌は紀元前3世紀頃だとされます。歴代誌がまとめられた時代になると、神はあらゆる悪から遠い存在であるべきだと考えられ、ダビデを誘惑するのは「主」ではなく「サタン」だとされたのだと説明されます。旧約聖書は長い歴史の中で書かれていますから、考え方が変化し、表現や語義が変えられることもあります。たとえば、旧約聖書に登場するサタンは「訴える者・敵対者」という意味であり、悪魔とは直接的な関係はないと言えます。
次に、サタンとみ使いとの関係ですが、どちらも超人的な存在ですが、神から自由な存在ではなく、神の許可があって行動する存在です。サタンは「訴える者」を意味しますから、み使いに比べれば、疑り深いものとして登場することが多いように思います(ヨブ1章)。
ご無沙汰しております。
どうにか体調も回復し以前同様日常生活をおくることができるようになりました。
9月12日(金)の講座に参加させて頂きます。
楽しみにしております。
小川藤彌
ご無沙汰しております。築地教会での講座には誰でも自由に参加できるのでしょうか?(例えば、9月土曜日の詩篇講座に参加できますか?) よろしくお願いします。
小川さま
猛暑が続いていますが、お元気でしょうか。
おたずねの件ですが、築地教会で行う私の講座には二種類あります。一つは教区の生涯養成講座の一環として行う講座(火曜日と金曜日)であり、もう一つは真生会館聖書センターとして行う講座(土曜日)です。どちらの講座も、どなたでも参加することができます。ぜひいらしてください。
8月は夏休みになりますが、9月から「活動予定」にあるように、どちらの講座も開かれます。よろしくお願いします。
雨宮慧